藤田嗣治油彩 水彩 素描 版画の販売
作品一覧
プロフィール
藤田嗣治
Tsuguharu Fujita
1886年~1968年。
東京市牛込区(現在の東京都新宿区)出身。
レジオン・ドヌール勲章、朝日文化賞、第1回トリエステ宗教美術展金賞を受賞。
没後、勲一等瑞宝章を追贈される。
独自の画風を確立し、「乳白色の肌」で知られる、フランスや日本を中心に活躍した洋画家。
彼の最大の特徴であり、多くのファンを虜にする魅力は、「乳白色の肌」です。
また、日本画の伝統的な技法である墨や筆による線描を西洋の油彩画に融合させるという、唯一無二の作風を確立しました。

藤田嗣治 女と猫 版画
モチーフとしては、透き通るような肌の女性や、愛らしい猫を好んで描いたことで知られています。
宗教的なテーマに深く向き合った晩年の活動も高く評価されており、1961年には第1回トリエステ宗教美術展で金賞を受賞しました。
また、レジオン・ドヌール勲章や朝日文化賞など、数多くの栄誉に輝き、没後には日本政府より勲一等瑞宝章が追贈されました。
バーバリーアートスペースでは、
真贋保証の真作のみを取り扱っております。
代表的なモチーフと作風
藤田嗣治の代名詞といえば、キャンバスに透き通るような白さを表現した”乳白色の肌”。
この独自の作風は、当時のパリ画壇で大きな衝撃を与え、今でも世界中のコレクターたちが存在します。
最大の手法的な特徴は、西洋の油彩画に日本画の技法を融合させた点にあります。
彼は、平滑に整えられた白い下地の上に、細い面相筆と墨を用いて繊細な輪郭線を描き出しました。
この和洋折衷の表現こそが、藤田作品の唯一無二の魅力であり、現在の美術市場でも高い相場を維持している理由の一つです。
愛されたモチーフ:女性と猫、そして宗教的テーマ
藤田が好んで描いたモチーフには、一貫したこだわりが見られます。
弊社での取り扱い作品においても、以下のテーマは特に人気がございます。
藤田は猫を描く画家として有名でした。
時には女性に寄り添い、時には一匹で気ままに過ごす猫たちの姿は、彼の作品における重要なテーマとなっています。
特に版画の代表作である、シリーズ「猫十態」などは、現在も市場で高い人気を誇ります。
画像作品は「眠る猫:猫十態より」。
晩年にフランスへ帰化した後は、カトリックの信仰に基づいた宗教的な画風へと変化しました。
繊細な筆致はそのままに、より精神性の高い荘厳な世界観を構築しています。
「魅せられし河」、「四十雀(しじゅうから)」、「小さな職人たち」といった主な作品シリーズは、今も多くの美術館に所蔵されています。
作品画像は「花の洗礼」。
藤田嗣治の作品をお探しの方へ
弊社では、生前の版画作品や復刻画、また原画もお取り扱いしております。
原画については、美しい女性や少女を描いた原画作品(油彩)、猫を描いた原画作品(油彩)、またデッサンや水彩画などがございます。
原画・一点物のお取り扱いについて
希少性の高い藤田嗣治先生の原画作品につきましては、HPへの掲載を控えさせていただく場合が多いです。
サイト未掲載の在庫状況の確認や、入荷待ちのご要望につきましては、個別にご案内を承っております。
藤田嗣治のよくあるご質問
Q. 藤田嗣治はどのような生涯を送った人物ですか?
A. 藤田嗣治は1886年に東京で生まれ、東京美術学校(現在の東京藝術大学)で洋画を学んだ画家です。
1913年にフランスへ渡り、パリでピカソやモディリアーニらと交流しながら、独自の画風を確立しました。
1920年代には「乳白色の肌」と呼ばれる独特の表現で国際的な評価を得て、エコール・ド・パリを代表する画家のひとりとなりました。
その後、日本への帰国や中南米への旅行、戦争記録画の制作などを経て、戦後は再びフランスへ渡ります。
1955年にフランス国籍を取得し、1959年にはカトリックの洗礼を受けて「レオナール」の洗礼名を授かりました。
晩年にはフランスのランスにフジタ礼拝堂を建設し、1968年に81歳で逝去しました。
Q. 藤田嗣治の「乳白色の肌」とは、どのような色なのでしょうか?
A. 「乳白色の肌」とは、藤田嗣治が1920年代に確立した、白く滑らかで透明感のある肌の表現を指します。
単純な白色ではなく、象牙や陶器のような柔らかな白に近く、淡い陰影を重ねることで、人間の肌が持つ繊細な質感を表現しています。
また、細い墨線によって身体の輪郭を描き出すことで、白い肌の美しさを一層引き立たせています。
日本画を思わせる繊細な線描と西洋の油彩技法を組み合わせたこの表現は、当時のパリ画壇で高く評価され、藤田の代名詞となりました。
Q. 藤田嗣治の代表作にはどのような作品がありますか?
A. 藤田嗣治の代表作としては、「乳白色の肌」を生かした裸婦像や、猫、少女などを描いた作品が知られています。
特に1920年代の《ジュイ布のある裸婦(Nu couché à la toile de Jouy)》(パリ市立近代美術館所蔵)、《五人の裸婦》(東京国立近代美術館所蔵)、《自画像》(東京国立近代美術館所蔵)などは、藤田の画業を代表する作品です。
また、《少女と猫》(ポーラ美術館所蔵)や《カフェ(Au café)》(ポンピドゥー・センター所蔵)といった作品のほか、戦時中に制作した《アッツ島玉砕》(東京国立近代美術館に無期限貸与)、晩年に手がけた宗教画なども重要な作品として知られています。
藤田は裸婦像だけでなく、肖像画、静物画、風景画、戦争記録画、宗教画など、生涯にわたり幅広い題材に取り組みました。
Q. 藤田嗣治の作品に登場する女性たちは誰なのでしょうか?実在するモデルはいますか?
A. 藤田嗣治の描いた女性像には、実在の人物をモデルとした作品が数多くあります。
有名なモデルのひとりが、1920年代のパリで活躍した「モンパルナスのキキ」ことアリス・プランです。
キキを描いた裸婦像は、藤田の代表的な作品として知られています。
また、3番目の妻であるリュシー・バドゥ(通称ユキ)も重要なモデルでした。
雪のように白い肌を持つ彼女は、「乳白色の肌」の表現を象徴する女性のひとりです。
そのほか、マドレーヌ・ルクーなど、藤田と親交の深かった女性たちも作品に登場します。
※ただし、すべての女性像のモデルが特定されているわけではありません。
Q. 藤田嗣治の作品には、どのような特徴がありますか?
A. 藤田嗣治の作品の最大の特徴は、繊細な線描と独特の白い絵肌を組み合わせた表現です。
面相筆などを用いた細く美しい輪郭線は、日本画の伝統的な表現を思わせる一方、油彩による質感や陰影には西洋絵画の技法が生かされています。
また、女性や猫、少女をはじめ、日常生活の身近な題材を多く描いていることも特徴です。
晩年には、丸みのある顔立ちや大きな瞳を持つ少女、天使、宗教的な題材などが多く見られるようになりました。
時代によって画風は変化していますが、日本と西洋の美術を融合させた独自の表現が、藤田作品の大きな魅力となっています。
Q. 藤田嗣治の作品はどこで見ることができますか?
A. 藤田嗣治の作品は、国内外のさまざまな美術館に所蔵されています。
国内では、藤田作品を専門的に収集する軽井沢安東美術館(長野県)をはじめ、ポーラ美術館(神奈川県)、東京国立近代美術館(東京都)、豊田市美術館(愛知県)などが挙げられます。
また、フランスのポンピドゥー・センターをはじめとする海外の美術館にも作品が所蔵されています。
ただし、所蔵作品が常時展示されているとは限らないため、訪問前に各美術館の公式サイトで展示情報をご確認ください。
Q. 藤田嗣治の絵画や版画は、いくらくらいで取引されていますか?
A. 藤田嗣治の作品価格は、原画か版画かによって大きく変動します。
技法(油彩か水彩か版画か等)はもちろん、そのうえでモチーフや制作年代、サイズ、保存状態等によって変わります。
特に「乳白色の肌」を生かした1920年代の裸婦像などは、美術市場でも高く評価されており、著名な作品が高額で取引されることがあります。
一方、版画作品は原画と比べれば比較的入手しやすいものもありますが、モチーフや人気の有無、制作時期、直筆サインの有無などによって価格に大きな差があります。
また、藤田作品には生前に制作された版画のほか、後年に制作された復刻版画なども存在するため、作品の種類を確認することが大切です。
購入を検討される際は、価格だけでなく、真贋や作品の制作背景、保存状態なども併せて確認することをおすすめします。
Q. 藤田嗣治の作品のなかで、人気のあるモチーフ・図柄は何ですか?
A. 藤田嗣治の作品では、特に「猫」「少女」「女性(裸婦)」が代表的なモチーフとして知られています。
猫は藤田が生涯にわたって好んで描いた題材であり、猫だけを描いた作品や、少女と猫を組み合わせた作品など、さまざまな表現が見られます。
少女を描いた作品も人気があり、特に晩年の丸みのある顔立ちや大きな瞳を持つ少女像は、藤田らしい親しみやすさが感じられます。
また、「乳白色の肌」を生かした女性像や裸婦像は、美術史的にも重要な作品群です。
そのほか、自画像、パリの街並み、静物画、宗教画なども知られており、作品の年代によって異なる魅力があります。
Q. 藤田嗣治の作品が本物かどうかを見分けるポイントはありますか?
A. 藤田嗣治の作品の真贋を、一般の方が見た目だけで判断することは非常に困難です。
確認するポイントとしては、原画であれば鑑定書の有無がまず必須になります。
そのうえで、制作技法やサイン、使用されている画材、作品の来歴、過去の展覧会出品歴、文献への掲載歴などがポイントとなります。
ただし、サインや証明書が付属しているからといって、必ずしも真作であるとは限りません。
高額な作品を購入する際には、信頼できる専門家や取扱画廊に確認し、作品の真贋について十分に説明を受けることが重要です。
主な所蔵美術館
藤田嗣治(レオナール藤田)の作品は、その歴史的価値から世界各地の公的コレクションに所蔵されています。
①軽井沢安東美術館 (長野県)
公式HP (別タブ)
世界初の藤田嗣治だけを展示する専門美術館。
②東京国立近代美術館 (東京都)
公式HP (別タブ)
藤田嗣治の描いた戦争画を唯一展示されている。
③パリ市立近代美術館(フランス、パリ)
Musée d’art moderne de la Ville de Paris
公式HP (別タブ)
「花の洗礼」1959年、「横たわる裸婦像」1922年、「少女」1917年など、油彩や版画など数多く所蔵。
生い立ち
画家を志した学生時代
1886年に東京府に、陸軍軍医の家に生まれる。
父の上司だった森鴎外の勧めで東京美術学校(現在:東京藝術大学)の西洋画科に入学した。
だが、当時の日本画壇は黒田清輝らのグループによる印象派、写実主義が主流であり、藤田 不遇の時代であった。
渡仏とモンパルナスの芸術家たち
そして画家として一人前になるため1913年に渡仏して、パリのモンパルナスに居を構える。
当時のモンパルナス界隈は郊外の新興地であり、家賃の安さから芸術家や画家が多く暮らしていた。
隣部屋のモディリアーニ、シャイム・スーティンと親しくなり、彼らからエコール・ド・パリの画家たち、パスキン、ピカソ、キスリング、ジャン・コクトーなど(現在でも広く名を残している芸術家たち)を紹介され、交友を結んだ。
新しい作風の模索
1914年あたりから、立体派風の制作を試みる。
パリではキュビズムやシュールレアリズムなど、新しい芸術が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は衝撃を受け、パリの芸術の自由さや奔放さに魅せられこれまでの作風を捨て、一から芸術を模索する。
数年は困窮する生活を送るものの段々と作品が評価され、
パリのシェロン画廊で初の個展(1917年)をはじめとし、ブリュッセル、アントワープ、ベルリンなどヨーロッパ各国で個展を開催した。
「乳白色」とパリでの成功
1918年の第一次世界大戦終結後には戦後の好景気でパトロンがパリに集まり、またシェロン画廊で2回目の個展を開催したことなどから、藤田の芸術活動の追い風となる。
面相筆と墨で細い輪郭線を引き、自ら研究し生まれた”乳白色”で描いた裸婦像が非常に高い人気を得てサロン・ドートンヌの審査員にも推挙されるなど、急速に藤田の名声が高まった。
パリの寵児とまで呼ばれるほど藤田は経済的にも成功し、パリで芸術的なセンセーションを巻き起こす。1925年にはレジオン・ドヌール勲章を得た。
帰国と世界各地での活動
1929年一時帰国し、東京朝日新聞社屋と日本橋三越で2度個展を開催し、大成功を収める。
翌年からニューヨークで個展を開き、この頃出版したエッチング版画20枚が収録された「猫の本」は、特に人気で現在は希少本とされている。
さらに、メキシコ、フランス、日本などで各国で個展を開催し、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、チューバ、メキシコと回り滞在して制作活動に励む。
1933年、日本に帰国。
翌年に中南米旅行の制作物を中心に、日動画廊で個展を開き、開始3日目で作品が売り切れる。
戦争画と日本を離れるまで
一度フランスに戻るが、パリが陥落寸前となった1940年に帰国し、その後の第二次世界大戦の中で戦争記録としてリアルな描写で戦争画を描くこととなった。
戦争画を描いた画家は数多くいたものの、終戦後には戦争協力者として見られるようにもなり、日本国内の情勢に嫌気がさし1949年に日本を去り、アメリカに渡ったのちフランスに帰化する。
カトリックへの改宗と晩年
1959年に君代夫人と共にランス・ノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタの名を得た。
そして2年もの間準備を行い設計したパリ東北150キロのランス、ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂が完成する。
礼拝堂の制作は壁画だけでなく、ステンドグラス、彫刻、芝生の石の構成までを行った。
年譜
1886年 東京市牛込区新小川町に生まれる。
1893年 東京高等師範学校附属小学校に入学。
1900年 同中学校に入学。
1905年 東京美術学校予備科に入学。森鴎外のすすめで東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝に師事する。
1910年 東京美術学校西洋画科本科を卒業。白馬会第13回絵画展覧会に「山より」「女」が入選する。
1912年 光風会第1回絵画展覧会に「清水湾」「帝国劇場」「南国」が入選。
1913年 渡仏する。パリのモンパルナスにアトリエを構え、パブロ・ピカソやアメデオ・モディリアーニらと交流する。
1917年 パリのシェロン画廊で初の個展を開く。さらに、ブリュッセル、アントワープ、ベルリンなどヨーロッパ各国で個展を開催する。
1919年 初めてサロン・ドートンヌに出品した6点すべてが入選し、その年に会員に推挙される。
1920年代 独自の技法による「乳白色の肌」の裸婦像を確立し、エコール・ド・パリを代表する画家として国際的な名声を得る。
1923年 サロン・デ・チュイルリーの会員となる。
1925年 レジオン・ドヌール五等勲章を贈られる。
1926年 サロン・ナショナル・デ・ボザールの審査員となる。
1929年 16年ぶりに一時帰国し、凱旋帰国展を開催する。
1930年 パリに戻る。その後、各国を巡って滞在し、個展などを開催する。
1931年 パリを離れ、中南米への旅に出発する。ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、キューバ、メキシコなどを巡り、各地の風俗や人物を描く。
1933年 帰国。日本を活動の拠点とする。
1934年 日動画廊で個展を開く。二科会会員に推挙される。
1935年 大阪の十合百貨店特別食堂に壁画を制作。銀座の喫茶店コロンバンに天井画を制作する。
1937年 横光利一原作「旅愁」の挿絵を東京朝日新聞に連載。
1939年 渡米したのち、パリへ向かう。
1940年 第二次世界大戦の戦火の下、パリから帰国。
1941年 父・嗣章が死去する。帝国芸術院会員となる。国際文化振興会から文化使節として仏印に派遣される。
1942年 陸軍省の依頼などにより戦争記録画を制作。「十二月八日の真珠湾」などを手がける。
1943年 朝日文化賞を受賞する。戦争記録画「アッツ島玉砕」を発表する。
1949年 日本を離れて渡米し、ニューヨークに滞在。その後フランスへ渡る。
1951年 秘蔵の労作「我が室内」「アコーデオンのある静物」などの代表作をパリ国立近代美術館に寄贈する。
1955年 フランス国籍を取得。日本芸術院会員を辞任する。
1957年 レジオン・ドヌール四等勲章を贈られる。
1959年 君代夫人とともにランス大聖堂でカトリックの洗礼を受ける。洗礼名は「レオナール」。ベルギー王立アカデミー会員となる。
1960年 新宿伊勢丹で藤田嗣治展を開催。
1961年 パリ郊外のヴィリエ=ル=バクルに住居兼アトリエを構える。
1966年 フランス・ランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂(フジタ礼拝堂)を建設。設計や内部のフレスコ画などを自ら手がけ、ランス市に寄贈する。
1968年 スイスのチューリッヒで逝去(81歳)。日本政府より勲一等瑞宝章を追贈される。
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画像作品は「女と猫」。