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平山郁夫日本画 版画の販売

作品一覧

プロフィール

平山郁夫
Ikuo Hirayama

1930年(昭和5)〜2009年。
広島県の生口島に生まれる。

文化功労者、文化勲章受章者。
15歳の夏の被曝体験で、広島の惨状にショックを受け、悲劇の証人としていつかはこの主題に向き合わなければ、と思い続ける。

平山郁夫「楼蘭」の作品、絵のみ

平山郁夫 楼蘭 版画

1959年(昭和34)に院展に「仏教伝来」を出品。

命がけの求法の旅を成し遂げた玄奘三蔵に共鳴し、
日本文化の源流である仏教伝来の道、仏教を主題にした絵を描き続けようと、生涯のテーマを見出した。

これを契機に、インド、中国大陸、中央アジア、ヨーロッパをまわり、制作活動を進める。

以後、仏伝シリーズとシルクロードシリーズを2本の柱として画業を展開していく。

平山郁夫 月光砂漠らくだ行の版画作品、絵のみ

平山郁夫 月光砂漠らくだ行 版画

平山作品の根底には、平和への思いがある。自然や風景を描いても「平和への祈り」が宿っている。
宗教心の篤い父の影響と、原爆に倒れた人々への鎮魂、自らの原爆症に対する救いの気持ち、模写した数多くの仏画と、読み耽った文学や哲学書の影響によって、誰よりも強く平和を願い、歴史を描く旅の画家である。

壮大な構想力は、世界の様々な国の文化に対する深い知識と教養に裏付けられている。

○ 贋作問題について

かつて画商による贋作版画の制作・販売という事件が発覚しました。

これを受けて東美鑑定評価機構(東京美術倶楽部内)では、 問題のあった一部の版画について鑑定が実施されています。

バーバリーアートスペースでは、
真贋保証の真作のみを取り扱っております。

主なモチーフと作風

日本画壇の巨匠、平山郁夫。
平山郁夫の作品は、仏教とシルクロードを主題としたものが多く、平和への祈りが一貫したテーマとなっています。

シルクロードとキャラバン

平山が実際に繰り返し取材した中央アジアや中東の砂漠・遺跡をモチーフとした作品群。
なかでも、砂漠を行くらくだの隊商を描いたシリーズは最もよく知られており、昼と夜の光の違いを描き分けた複数のバージョンが存在します。
作品画像は「楼蘭」。

大和路

日本の古都・奈良を中心とした風景を描いたシリーズ。
仏教伝来の道の終点としての日本を意識した作品群で、シルクロードシリーズと対をなすテーマとして位置づけられています。
作品画像は「薬師寺の塔」。

世界遺産・遺跡

世界各地の歴史的遺跡を題材とした作品群。
代表的なものに「ブルーモスクの夜」(イスタンブール)、「パルミラ遺跡」(シリア)を描いた作品などがあります。
遺跡の記録・保護を訴えた平山の活動と、作品制作は密接に結びついています。

平山郁夫の作品をお探しの方へ

弊社では、ラクダなどシルクロードシリーズをはじめとしたオリジナル版画作品、また原画作品もお取り扱いしております。
原画は、シルクロードを描いた原画作品(紙本・彩色)、また寺院を描いた水彩画などがございます。
平山郁夫の在庫一覧

原画・一点物のお取り扱いについて

希少性の高い平山郁夫先生の原画作品につきましては、HPへの掲載を控えさせていただく場合が多いです。
サイト未掲載の在庫状況の確認や、入荷待ちのご要望につきましては、個別にご案内を承っております。

鑑定について

原画(一点物)作品については、東美鑑定評価機構 で鑑定が実施されています。

また、以前発生した版画贋作事件以降、東美鑑定評価機構 (版画)にて版画鑑定も行われています。
対象となる版画作品は、
「月光ブルーモスクイスタンブール」、「流沙朝暘」。

※変更点などある可能性もあるため、必ず公式の情報をご参照くださいませ。

主な所蔵美術館

平山郁夫の作品は、その歴史的価値と芸術性の高さから、国内外の多くの公的コレクションに所蔵されています。

①平山郁夫美術館 (広島県)
公式HP (別タブ)
「求法高僧東帰図」1993年や、「アンコールワットの月」1993年などの本画作品から、
「しまなみ海道五十三次」60点の水彩画など所蔵。

②平山郁夫シルクロード美術館 (山梨県)
公式HP (別タブ)
「トムシュクの遺跡」2007年、「コリントの遺跡」1978年、
「文明の十字路を往く アナトリア高原 カッパドキア トルコ」2009年など、
数多くの原画作品や水彩作品を所蔵。

平山郁夫の生い立ち

瀬戸内海の島に生まれる

1930年(昭和5)広島県生口島に生まれる。
生口島は、周囲28km余りで、平山家は350年続く島内で最も古い家だった。
島の中心である瀬戸田は古寺の多い文化的にも由緒ある町であり、島の人々の気質は爆発的な情熱性と忍耐強さという、両極的な特質で知られており、平山郁夫はこの島人気質をそのまま受け継いで成長した。

8人兄弟の3番目で次男。
物心つく頃には、鉛筆、クレヨンに興味を示し絵を描いた。母は、幼少期から絵本を買い与え、絵日記を描かせるなど、子どもの好奇心を刺激し、才能をのばすきっかけ作りもした。

時間があれば、家の裏山に登り海を眺めていた。
瀬戸内海は潮の満ち引きで海の流れが変わり、干満の境は海面がぴたりと静止する。自然現象が作り出す神秘的な静けさは、その美意識の原点となった。
平山作品に多く見られる静止した場面や、動と静が渾身一体となった美しさは、この故郷の風景に起因している。

父は、宗教心の非常に強い人で、また人望にも恵まれた人であった。少なからず、父の深い宗教心に裏打ちされた生活態度に影響を受ける。

小学校を通して、絵を描くことが好きで上手だったので、県展その他の児童画展で幾たびとなく賞状をもらった。他の学業もきわめて優秀で、水泳大会の選手になったりと、文武両道の少年であった。
スポーツを通じて、頑張りと忍耐強さが養われた。

被曝体験

1943年瀬戸田国民学校卒業後、広島の修道中学に入学。

広島の寮生活は、食糧事情も悪く軍隊の様な厳しい環境だった。
過酷な状況下、仲間で協力し合い勉強に励む。
絵を描くことで苦しい事を忘れ、「自分には絵が描ける」という誇りが少年を支えた。

もし空襲で死んでも、自分という人間がこの時代にこんな絵を描いていたと残すために、仕上がった絵に年号と月、名前を入れ焼失しないように実家へ送った。
絵を描くことは、自らの生きた証を残すことでもあった。

1945年(昭和20)中学3年生15歳の夏。
8月6日、勤労動員で広島陸軍兵器補給廠にいる時に被曝。
いくつかの幸運が重なり、閃光の直撃にも爆風にも合わなかったが、長い間後遺症に苦しめられる。

阿鼻地獄を見、阿鼻叫喚を聞きながら故郷生口島を目指して必死の逃避行を行なった。
直接目にした広島の惨状にショックを受け、悲劇の証人としていつかはこの主題に向き合わなければ、と思い続けていた。

東京美術学校最年少で合格

1947年(昭和22)、終戦後は母方の大伯父の清水南山の勧めで東京美術学校へ入学。最年少の16歳での合格だった。
しかし、当時本格的に絵を学んだことがなかったので、年上の同級生との技量の差に退学を考えるまでだった。

その時郁夫を救ったのが日本美術史の谷信一教授だった。
谷は郁夫に向かい、

「あなたは自分で絵が下手だというが、誰でも一度は下手になって底に沈むものです。
そんな自分がいやになるものですよ。
あなたの場合は、それが人より早くきたと思って続けたらどうですか。
まあ、少しのんびり遊んでごらんなさい。」

と述べた。

この言葉は、絶望の淵にいた郁夫の心に響き、絵筆を折る気持ちはなくなった。

さらに、南山の教えで古い絵画を模写し、文学や哲学書を耽読する事で心を落ち着け、試練を乗り越えようとした。
人一倍の努力によって、自らの才能を引き出した。

1949年(昭和24)学校の授業の一環で奈良を訪れる。
そこに千年以上の歴史を経てなお、古代の美がしっかりと生き続けている事を感じ取り、法隆寺や薬師寺が目の前にある事が奇跡であるようにも思った。

生まれて初めて接する天平芸術に、芸術観、世界観まで変わるほどの感動を覚えた。
自分が描くべき日本画は、この美に通じるものだと確信した。

奈良こそ、画家への出発点だった。

原爆の後遺症から「仏教伝来」

1952年(昭和27)東京美術学校日本画科を卒業。
東京芸術大学の副手として、日本画家の前田青邨に師事する。
(東京美術学校は、東京芸術大学へ改称)

この頃から、原爆の後遺症に悩まされ始める。

1955年(昭和30)同僚の松山美知子と結婚。
美知子も東京美術学校を首席で卒業する程だったが、結婚後は自ら筆を折り平山のサポートに回った。

翌年には長男廉が、昭和34年には長女弥生が生まれたが、大学助手の身分では充分な生活はおくれず、今後の絵画展開の行方、原爆症、生活苦と三重の苦しみを背負っていた。
白血球が通常の半分以下となり、断続的に貧血状態に襲われた。

「死ぬ前に、一枚でもいいから心に残る絵を描きたい」この気持ちは神仏に祈るものだった。

身体は弱っていたが、この年の5月、恒例の東北写生旅行に学生を率いて参加した。
5月の陽光に輝く八甲田の山々、新緑の樹々は生命力に満ちて平山の目に写った。大自然の大いなる力が、平山の画嚢を揺さぶったのだ。

東京に戻ってしばらくの時、「聖火シルクロードを通る」東京オリンピックの聖火がシルクロードを通って運ばれる、という記事を目にする。
その瞬間馬に乗った玄奘三蔵が、疲れ果ててオアシスに辿り着いた光景が目に浮かんだ。
自分の苦境と玄奘の辛苦が重なった。

国禁を犯してまでも経典を求めて天竺へ旅立ち、苦難の末にやっと緑あふれるオアシスへ着いた玄奘は、身体の疲れも忘れて心の充足感に満たされている。
緑の背景や馬の形が次々に浮かび、描くべき絵と進むべき道がはっきりと見えてきた。まさに天の啓示であった。
この様にして生み出されたのが、平山郁夫の初期の代表的名作「仏教伝来」である。

玄奘三蔵は中国唐代の訳経僧で、10歳で父を亡くし兄と共に出家。
20歳頃には中国に伝わる全ての教義を修得。
仏教誕生の地でその原点に学ぶ事を志す。
17年間に渡る旅を「大唐西域記」に記し、持ち帰った経典を十数年かけて翻訳。中国仏教の発展に大きく寄与した。

玄奘三蔵は、29歳の時にシルクロードへの旅に踏み出していった。
そして平山郁夫が同じ29歳の時、
1959年(昭和34年)秋の院展に「仏教伝来」を出品。受賞こそ逃したが、高名な美術評論家の河北倫明氏に絶賛されて、その数行の批評は平山に大きな自信を与えた。この時に仏教を主題とした絵を描き続けようという、生涯のテーマを見出したと言っても過言ではないだろう。
以後日本文化の源流である仏教伝来の道、仏伝シリーズと、東西文化交流の道であるシルクロードシリーズを2本の柱として、画業を展開していく。

1961年(昭和36)仏伝シリーズの中でもひときわ好評を博した「入涅槃幻想」が、初の日本美術院賞(大観賞)を受賞した。画想がまとまらずに苦心していた最中に義父の死に直面し、花が飾られた祭壇の情景に触発されて構想された作品で、義父の死が画家の苦境を救ったのである。この受賞により、画壇での揺るぎない立場を確立する。

初めての海外

1962年(昭和37)10月、第1回ユネスコ・フェローシップ奨学金の試験に合格。初の海外渡航で半年間かけて欧州5カ国を巡る。
東西文化の対比を試みる最初のきっかけとなる。
以来100回に及ぶ東西文化交流の道の取材旅を続ける事となる。

1966年(昭和41)東京芸術大学第1次中世オリエント遺跡学術調査団に参加。トルコ・カッパドキアを訪問。人生初のシルクロードに4ヶ月滞在。
翌年、前田青邨の指示で焼失した法隆寺金堂の第3号壁画の再現模写を担当する。
シルクロード西端のトルコから、東の終着点である奈良での仕事、大和を基点として日本はどの様に文化が発展し、歴史的変化を辿ってきたのか。この視点から、第一回は「大和路を描く」をとりあげ、第二回に「吉備路を描く」、第三回目は「熊野路を描く」ことになった。

シルクロード・シリーズ完成への第一歩 

法隆寺の模写をして、仏教美術の源を意識する様になると、日本の仏教美術が中国、インド、さらにはもっと西方の地域からの影響を受けているのは常識だが、それを自分の目で確かめ、比較したいという思いが募った。

1968年(昭和43)ソ連、中央アジア、アフガニスタン、ガンダーラ地方のパキスタンの取材旅行を行う。この旅が、平山をして完全にシルクロードの魅力に取りつかせる事になる。 

アフガニスタンから中央アジア天山山脈周辺のタシケント、サマルカンド、ガンダーラ地方、インド、スリランカ、カンボジア、イラン、イラク、アレキサンダー大王東征の路をカブールからイスタンブールまで…と、1974年まで毎年取材に出かけた。

更に、中国、チベット、新疆ウイグル自治区、大同、敦煌、麦積山、ヒマラヤを訪れ、1986年には日本人として初めて楼蘭遺跡に入った。

こうした取材で描かれた数々の作品は、1976年の「平山郁夫シルクロード展」で全国を巡回。中近東5カ国でも展覧会が開催された。 

玄奘三蔵院建立 

1973年(昭和48)年頃、玄奘に師事した慈恩大師が開祖である、法相宗の大本山薬師寺内に玄奘三蔵院が建立される事になり、館主の高田好胤に内部の壁画を依頼される。仏縁玄奘三蔵の導きであった。即座に快諾し、画料を受け取る依頼画ではなく、制作費の負担を申し出て、薬師寺と共に施主となった。

制作が始まると、具体的に玄奘の歩みを取材。東京芸術大学の学長や世界の文化財保存、ユネスコ親善大使など多くの公職を任され多忙だった為、完成は大幅に遅れたが、「20世紀最後の日に完成する」と公言し、2000年12月、平山が70歳の時に、

十三の壁面に七場面の「大唐西域壁画」が完成した。

師前田青邨の死去

日本画の一時代を築き、画業のみならず人生の師と仰いだ前田青邨が1977年に死去。生涯現役を貫き、芸術と真摯に向き合った姿勢、個性を伸ばす教育方針。画家が恩師から受け継いだものは多い。

 1978年(昭和53年)「画禅院青邨先生還浄図」を描く。平山郁夫が青邨に捧げる鎮魂の譜。浄土の人となった青邨を仏陀が雲に乗って迎えに現れた来迎図として構図。師に対する心情が清く美しく表現されている。 

広島生変図

1979年(昭和54)梅雨の時節、平山郁夫は広島市平和公園の慰霊碑の前に立った。それはもう何十回目だろうか。この時、平山の心に一つの確信が芽生え、「仏教伝来」から20年、被曝より34年の月日を要してやっと、“あの日“の炎の絵を描く事ができた。

この絵は「広島生変図」と題し、昭和54年の秋の院展に出品された。

悲劇の単なる現状報告ではなく、平和への強い意志と犠牲者に対する鎮魂の祈り。

炎の中で人々に生きる事を強く叫ぶ不動明王。原爆に対する怒りと悲しみを超えて、広島は生まれ変わったのだ、生き続けているのだ、という気持ちが込められている。 

もう一つのライフワーク 

作品を発表する一方、40年以上にわたり、東京芸術大学で後進教育に携わり、日本美術院理事長やユネスコ親善大使、日中友好協会会長など様々な役職を歴任するなど、社会と積極的に関わり行動する画家であった。1998年(平成10)には、それまでの画業と社会活動により、文化勲章を叙勲されている。 

また、文化財の保護活動にも積極的で、損傷しやすい文化遺産を守る為に「文化財赤十字構想」を提唱。自然破壊や戦火による崩壊の危機に瀕した文化遺産を、国や地域を超えて協力して守り、後世に残す。一方的な援助ではなく、現地の人々と一緒に保存、修復作業をする事で文化の相互理解を深め、技術者を育てることで経済的な復興にも繋げる。

平山の働きかけによって始まった事業が、現在もさまざまな組織によって引き継がれている。 

描き続けた人生

 2009年12月、脳梗塞のため79歳で死去。

残したスケッチブックは約600冊、下図類は数千枚に及ぶ。体調を崩し入院してからも、描く事をやめなかった。師を敬い、芸術と真摯に向き合い、妻の内助の功に支えられながら、平和を願い邁進し続けた人生であった。







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